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帰国報告

若い人が海外で見聞きしたことを、驚きと気づきを込めて発表する帰国報告はとても新鮮です。 「鉄は熱いうちに打て。」その熱は周りをも熱くする効果があります。内容が100%有用かと言われればそうではないかもしれないけど、私は若者の熱こそが明日を明るくする。そう信じています。 それに比べて「それなりに上級の方の帰国報告」は…。まあ許されるなら「報告書上げといて」で済ませたいです。ぐっとくることもないし気づきもない。少なくとも、時間を取って人を集めて発表するのは無駄ですね。

「日本の」外資系の仕事が厳しいと言われる理由?

深夜の電話会議とか色々理由が挙げられますが、要は「海外で捌く業務量を日本のやり方で捌こうとする」ことではないかと思います。 そしてその理由は「そうしないと管理職は自分の身が危うくなる、少なくとも会社・組織が維持できなくなる」から。 結論。「日本の外資系企業」=「日本のカイシャ」。」

コミュニケーションはしたくてするもの?

「XXさん(社内的にかなり高いポジションの方)とコミュニケーションしたいですか?」 という質問を受けたのですが、これ回答に困りますね。 コミュニケーションはあくまでも手段なので、「目的がはっきりしないのに手段聞かれても」というのが正直な回答になります。 冒頭の質問は社内的に指示を受けて出したもののようですが、そういうことをしてしまうこと自体に大きな(そして解決できない)問題を感じてしまいます。

穴があったら…

博多駅前の道路陥没事故。ああいうこともあるんですね。あれで死傷者がいなかったというのが良かったです。現場の方の感性と事後対応がうまく行ったということなのでしょう。ただ一方で、今後そういう「目端の利く人」が減ってしまうと、あるいはいなくなってしまうとどうなるのか、末恐ろしいという感じています。 トランプ勝利。「まじか」とも思いましたが、アメリカの現場を取材されていた方の中にはこうなる「空気」を感じている方もいたようです。マスコミの予測と世論調査本当にあてにならない。 「内向きでも外向きでもない、絶妙なバランスを巧妙に取り続けた」国など歴史上存在するわけもなく、長期的に両者を行きつ戻りつするというのが現実でしょう。

統計部門の若手を育てる方法

分かりません、そんなもの。 「若手」と言っても3人いれば3人とも違う人間なので、「育て方」も違うと考えるのがまっとうでしょう。そうなると、究極的には「色々な仕事・人と絡む場を提供して、その仕事・人から学んでもらう」より他に方法はないのかもしれません。 ある人から「子育てじゃないよ、子育ちだよ」と言われました。確かに子供は「養う」ことはできても、「育てる」のは難しい、というか気がついたら「育ってた」というのがほとんどです。 これまで仕えてきたボスを振り返っても、学びの多かったボスは総じて「じっと見守る」「キーポイント・ここだけはという点だけ助言」「うまく行かなくても何とかなると励ます」というスタンスだったように思います。 がんばれ若手諸君。勝手に育って下さい。

絶対にうまく行かないプロジェクト

前の勤め先で「統計解析用サーバ導入プロジェクト」的な業務をリードしたことがあります。「的な」というのは、形式上CSV(Computerized System Validation)プロジェクトの形態は取っていたものの、実際は周囲の巻き込み方が下手過ぎて、およそプロジェクトとは呼ぶことのできない「過多業務」でしかなかったという後悔の念があるからです。その後転職したのですが、そのサーバがどうなったかは知りません。 正直プロジェクトがハッピーエンドであったという訳ではないし、サーバ導入といっても単に統計解析パッケージをサーバに手順を尽くしてインストールしただけではありますが、それでも一応サーバという成果物は遺しました。成果物の良し悪しはともかく、成果物が残ればそれは「プロジェクト完了」ということになります。 一般にCSVプロジェクトでは、最初に導入計画書(マスタープラン)を作り、「・中途・最終成果物は何か」を定義することが多いです。それは、そうしないと「プロジェクトの進行状態・完了を定義できないから」。成果物の良し悪しはそこで検討すべき案件であって、終わってからああだこうだと言うのはおかしいんですね。 つまり「完了したプロジェクトではかならず最終成果物が定義されている」ということなので、「最終成果物が定義できなければプロジェクトは完了しない」ことになります。 例えば「風土改善プロジェクト」。成果物をどう定義するのか、そもそも風土とは何なのか、私にはわかりません。もしこの問いへの解答がなければ、このプロジェクトは「絶対にうまく行かない」可能性が非常に高いと考えられます。 もちろん「そういうプロジェクトをやっている状態を作る」ことが目的なのかもしれませんが。

客観的な主観

ある生物統計専門家がお亡くなりになりました。 言わば私の働く業界の土台を作った方で,私の前職の上司もこの方には頭が上がらない,そんな方でした。そういう世代の差もあり、直接何かを教わったりお世話になったり,ということはほとんどありません。 ただ一度,「企業側の人間」(私)と「規制当局側に近い人間」(その方)という立場でお目にかかったことがありました。とは言っても,私はまだ経験の浅い統計担当で,その方と話すのはもっぱら私の当時の上司 でした。 それは消炎鎮痛剤の臨床試験デザインに関する相談でした。鎮痛剤の有効性は基本主観評価しか方法がありません。当時は既に患者さんによる自己評価が主流になりつつありましたが,当時の私の勤め先のような小さい会社では古い考えも残っていて, 「医師による評価を使う方が臨床担当にとって結果も読めて安心できる」 ,そんな時代でした。 そんな中で冒頭の生物統計専門家との相談を持つことになりました。そこで聞いたのが 「客観的な主観評価を目指す」 といった趣旨のアドバイスでした。当時の私は分かったような分からなかったような。 今にして思えば,その方のおっしゃりたかったことは「透明性」,つまり「試験計画」「CRF」の設計の中で,「どんな痛み」を「どういう表現形」で評価するかを作り込み,患者さんに分かってもらうプロセスを事前に詳らかにすることの重要性だという理解に至りました。 何かの「正しさ」を決めるものは,その「もの」だけでなく,その「もの」に至るプロセス。 実は,これは今の勤め先の海外本社のスタッフも口酸っぱく言ったことと同じなのです。 こういう哲学を語ってくれる方がいなくなるのは実に残念です。 合掌。