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平成30年の大みそか

もうすぐ平成30年が終わる。来年は改元なので、平成の大みそかは今回が最後。 だからといって「平成」に何か思い入れがあるという訳ではないけれど、高校2年の終わりに昭和が終わり、平成の始まりと共に社会との接点を持ち始めた身としては、「ああ30年か」とその数字に感じるものはあります。 色々あった30年ですが、得られた最大の知見は「人はいつか死ぬ」ということでしょうか。大学時代に母親が大病を患い、幸い一応治療は成功したものの、その時初めて具体的な「身近な人の死」を意識しました。その数年後にはなんと大学時代の友人が急死し、自分にとっても無縁なことではないことを痛感しました。その後も父親、そして恩師と大切な人の死に接することになりますが、子供を持った今「その時」までに何ができるか、真剣に考え続けて…いないですね。 そこがなんともダメなところなのですが、でも毎日を何とかやりぬけることでしか次の日にはつながらないし、その姿を見せることぐらいしか今の私にはできない。そう思うよりないです。  次に大きい発見は「常識は覆る」。将棋の定跡がここ数年AIの発達で大きく書き換えられています。科学技術の発展がこれまでの常識を軽く変えてしまうという現象は、将棋の世界に限らず多く見られます。といっても、その「常識」自体、実は一部の人(やマスコミ)が言った「仮説・はったり」が既成事実になっただけということもあるのでしょう。それが技術の進歩でメッキが剥がれたというだけで。やはり思い込みや人の意見の鵜呑みは危険で、自分で考えることが重要ということなのでしょう。  紅白の大トリはサザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」を歌うらしい。それ昭和の歌やん…というツッコミが脳内を駆け巡りますが、それだけ平成が「何も共有できなかった時代」だったという皮肉だとしたらナイスチョイス。

「正解がない」ことと「回答(の選択肢)がない」ことは違う

「正解がない」のは、事態は常に動き、いろいろな利害が絡んで「何を選んでも不正解」になるから。しかしそれならいかようにも対応可能で、「とりあえず何かやりますか」と現状を改善に向かわせるアクションを取りやすくなる。 しかし、そもそも「回答がない」のにやたら質問を投げかけても基本時間の無駄。

しくじってない先生

まあ話は耳に入りませんわな、そんな人の話。 しくじってないというよりしくじるチャンスさえ与えられなかった先生の話。 なぜそんな企画をするのか、よく考えれば「知り合いにそういう人しかいない」だけという結論にたどり着く。